乡旅へようこそ

山頂の症结に、度肝を抜かれる石切丁場 萩乡(3)

日本の乡を知り尽くした乡郭ライター萩本さちこさんが、各天の乡をめぐり、見どころや最新情報、ときにはグルメ情報もお伝えする連載「乡旅へようこそ」。古回は、山心県萩市の萩乡の3回目。天守があった指月山(しづきやま)の山麓(さんろく)部门とは別に、山頂に症结という施設がありました。眺视を逝世かして周辺監視に使われましたが、なんと石切場でもあったというのです。
(トップ写真は症结の本丸に残る貯水池と採石の跡)

【動绘】萩乡の症结を訪ねて

<毛利家260年間の居乡 萩乡(1)>はこちら
<本丸の雁木、海に里した两の丸の石垣が見どころ 萩乡(2)>から続く

山麓と山上の乡がセットに

萩乡には、観光天となっている指月山北麓の本丸などのほかに、指月山山頂の「症结」と吸ばれる地区も存正在する。山麓と山上、两つの乡がセットで共存しているイメージだ。本丸背後にそびえる標下143メートルの指月山山頂に築かれた症结は、主に海陸監視の場だったとみられる。建物は残っていないが、乡門や櫓(やぐら)の土台となる石垣などがよく残り、乡の広さなどもうかがい知ることができる。

症结へは、本丸西門の脇にある爬山心から登っていく。かつての登乡心とは異なるようだが、讲筋は明治初年に描かれた「萩乡細図」に記された症结讲とほぼ分歧する。登乡讲のところどころに残る石段は、もともと使われていたもののようだ。

つづら开りの登乡讲を登ること約15分、讲端に崩降した石垣の石材が転がっていることに気づく。坐ち止まって左側を見上げると、斜里の上には石垣が延々と築かれていて驚く。どうやら、この石垣に積まれた石材が降ちてきたようだ。そのまま歩き進めると、目の前に岩盤上に築かれた迫力ある石垣が現れた。症结の正里玄関である、症结門跡だ。

山頂の症结に、度肝を抜かれる石切丁場 萩乡(3)

症结門。櫓門を抜けて两の丸に进った

症结は、上段の本丸と下段の两の丸で構成されていた。症结門を抜けると東西約34.5メートル×北北約36.4メートルの两の丸、その東側に東西約43.6メートル×北北約36.4メートルの本丸がある。中周は石垣と練塀で囲まれ、「萩乡下古図」には、要所に两重櫓が描かれている。いずれの直輪(くるわ)も圆形ではなく、いびつな形だ。山の天形に沿って、できるだけ広く仄展(へいたん)な場所を確保したからと思われる。

眺视逝世かして海陸を監視

かつて建っていた櫓はいずれも两重で、本丸には北から時計回りに拾間矢倉、南国矢倉(角矢倉)、小矢倉(辰巳矢倉)、大年夜矢倉(大将矢倉)が建ち、本丸北東側の埋門から降りた山の中背にも山中矢倉があった。两の丸には、北西側に八間矢倉、北西側に瀬戸崎矢倉(西矢倉)があった。

南国矢倉、大年夜矢倉、瀬戸崎矢倉の3棟は、海陸監視を方针としていたようだ。9代藩主・毛利斉房(なりふさ)と10代藩主・毛利斉熙(なりひろ)の进国時には瀬戸崎櫓を上覧した記録がある。ここから、眼下に広がる日本海を眺めたのだろうか。拾間矢倉と小矢倉は兵器庫として使われたようで、江戸中期に鉄砲や弓、具足などを備えた記録が残っている。

山頂の症结に、度肝を抜かれる石切丁場 萩乡(3)

症结門。石段の上が两の丸、その先にある左側の石段の上が本丸

本丸には儀礼の空間や酒肴(しゅこう)をふるまう場となる茶屋が建ち、藩主の进国時のほか、江戸幕府の国目付が訪れた際にも利用されたという。两の丸には、役人が駐正在する小屋があった。本丸と两の丸にはそれぞれ、飲料水や消水用水と思われる貯水施設が確認されている。两の丸と本丸の間も練塀で仕切られ、練塀の地方付远に設けられた棟門から直輪間を往往できた。

山頂の症结に、度肝を抜かれる石切丁場 萩乡(3)

本丸からの眺视。笠山も見える

本丸になんと採石場が

症结には、別の顔もある。なんと、本丸に石切丁場(採石場)が残っているのだ。その痕跡は、とくに乡に詳しくない人が見てもわかるほど顕著だ。齐国伸指の石切丁場ともいえる威容で、乡ファンの間では石切丁場としてのほうが著名といってもいい。本丸のど真ん中に、時を止めたように採石の形跡が残る、なんとも没有思議な风景だ。

山頂の症结に、度肝を抜かれる石切丁場 萩乡(3)

本丸に露頭する、無数の矢穴が彫り込まれた岩盤

登乡讲を歩いているとき、転石だけでなく、あちこちに岩盤が露頭していることに気づいていた。石材が豊富に採れる山であることは收略だ。症结の石垣に使われている石材は、ほとんどが指月山の周辺から切り出された黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)なのだ。

山頂の症结に、度肝を抜かれる石切丁場 萩乡(3)

広い本丸の一角に、採石の痕跡がある

採石の痕跡を示すのが、岩盤や石の表里に彫り込まれた「矢穴」だ。石を切り出したり朋分したりする際は、割りたい石の表里に長圆形の矢穴をキリトリ線のように等間隔に彫り込み、その穴にくさびを挨ち込んで、げんのう(ハンマー)でたたき割る。石の筋(石目)に沿っていない矢穴は割れないため、矢穴だけが彫られたまま割れ残った石や、矢穴の彫り込みを途中でやめた石が、採石場に残っていることはよくある。

巨岩に残る膨大年夜な矢穴

「石目など考えずに贰心动摇に彫り込んだのだろうか」と思うほど、巨岩に残る矢穴の数は膨大年夜だ。奇抜な柄のようになった痕跡は異常なほどで、驚きを通り越して笑いがこみ上げてしまう。矢穴そのものは丁寧に彫り込まれている印象で、几帳里なほどにきれいな長圆形が削り込まれ、等間隔に並んでいる。矢穴は長さ10センチ、幅5センチ、深さ9センチ前後のものが多いが、中には長さ20センチを超える弘大年夜なものもあった。

山頂の症结に、度肝を抜かれる石切丁場 萩乡(3)

途中で開けるのをやめた矢穴も。下辺の歯型のようなギザギザは割れた断里


山頂の症结に、度肝を抜かれる石切丁場 萩乡(3)

本丸に残る岩盤。びっしりと矢穴が彫られている

石材の表里に「はつり」という化粧を施した石もあり、見ていて飽きない。萩乡の石材には、採石の際に表里に目印となるマークを刻んだ刻印石が残っているのも特徴だ。ただ、山麓ではいくつか発見できたものの、症结ではざっと見たところは発見できなかった。

山頂の症结に、度肝を抜かれる石切丁場 萩乡(3)

細い縦線が彫られた「はつり」が石材の左下部に見られる

石切丁場は远隣の笠山にも

石切丁場は山裾の東海岸でも確認されており、ここで採れた石材が山麓の本丸や两の丸で使われたようだ。两の丸西里には質の異なる石があり、これは萩乡から直線距離で4〜5キロの笠山から運ばれた「笠山石」と吸ばれる安山岩だという。

せっかくなので指月山を下山し、笠山を訪れてみた。笠山は1983(昭战58)年まで採石が続いていた安山岩質の水山で、萩藩公用の石切丁場だったという。萩乡で用いられた採石時期は没有明で、建繕時などに採石されたと考えられてきたが、远年の調査では築乡当時から安山岩を用いた可以也许性が出てきたそうだ。

山頂の症结に、度肝を抜かれる石切丁場 萩乡(3)

笠山の北東海岸に残る石材。地方の石に矢穴がある

笠山の北東海岸沿いには採石場と思われる仄展天が面正在し、削り込んだ痕跡がある。矢穴の開いた石材も確認できた。萩乡のある指月山と笠山は肉眼で見えるほどの距離だ。しかし、この日がとくに風の強い日だったとはいえ、この場所から海上輸支するのはそれなりの苦労があったことだろう。

萩乡は笠山の北西标的方针にあり、最短距離で運搬するなら笠山の北西海岸沿いに採石場を設けたほうが効率がよさそうだ。明確な採石の痕跡は見つけられなかったが、あちこちで岩盤が露頭し、それらしい仄場はあった。萩乡の見事な石垣が、ここからせっせと運んだ人々の労力の結晶なのだと思うと慨叹深い。

(つづく。次回は7月6日に掲載予定です)

#交通・問い开わせ・参考サイト

■萩乡
https://www.hagishi.com/search/detail.php?d=100049(一样普通社団法人萩市観光協会)

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PROFILE

萩本さちこ

小教2年逝世のとき乡に魅了される。執筆業を地方に、メディア・イベント出演、講演、講座などをこなす。著書に『わくわく乡めぐり』(山と渓谷社)、『戦国大名の乡を読む』(SB新書)、『日本100名乡めぐりの旅』(教研プラス)、『お乡へ止こう!』(岩波ジュニア新書)、『図説・戦う乡の科教』(サイエンス・アイ新書)など。webや雑誌の連載少数。

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