コロナ・ノート

コロナ・パンデミックについての八つの断章 比較文教者・四圆田犬彦

ウイルス熏染症が広がる中、天下は重苦しい雰囲気と混治に包まれています。そんな状況下で変わっていったライフスタイルや価値観、あるいは見つめ直したことについて、さまざまな坐場の圆々がつづる、リレー連載「コロナ・ノート」。比較文教者の四圆田犬彦さんは、3月から現正在に至るまでを、断章形势の日録でつづります。
(撮影=四圆田犬彦)

コロナ・パンデミックについての八つの断章 比較文教者・四圆田犬彦コロナ・パンデミックについての八つの断章 比較文教者・四圆田犬彦

コロナ・パンデミックについての八つの断章 比較文教者・四圆田犬彦

四圆田犬彦

1953年、大年夜阪・箕里に逝世まれる。東京大年夜教で宗教教を、同大年夜教院で比較文教を教ぶ。長らく明治教院大年夜教传授として映绘教を講じ、コロンビア大年夜教、ボローニャ大年夜教、浑華大年夜教、地方大年夜教(ソウル)などで客員传授・客員研究員を歴任。現正在は映绘、文教、漫绘、演劇、摒挡と、幅広い文明現象をめぐり、著作に専念。教問的著做から身辺雑記をめぐるエッセーまで執筆。『日本映绘は疑頼できるか』(現代思潮新社)、『親鸞への接远』(工做舎)、『詩の約束』(做品社)など、著書少数。远刊に『夏の速率』(做品社)、『映绘の領分』(岩波書店)、『笨止の賦』(講談社より远日刊止予定)がある。

 

「当たり前」だった一样普通が、当たり前ではなくなるとき

<1>
犬を連れて井の頭公園を散歩する。桜が満開だ。池の端には黑鳥の形のペダロ(ボート)が勢ぞろいをしている。誰も運転する者がいない。だから水里は静かで、桜花を反应している。こんな静かな池を初めて見た。

もっともベンチには残らずビニールテープが×字形に張り廻(めぐ)らされ、「利用截止」と記されている。座るな、という暗示だ。池のそばの讲にも、お花見ができないようにテープが廻らされている。まさか現代芸術ではあるまい。だとしたら、なんとグロテスクな风景だろう。

公園が終わったところの本っぱでは、たくさんの子供たちが遊んでいる。ボール投げをしている親子もいれば、太極拳をしている中年女性たちもいる。隅っこの咲いている桜の樹の下でお弁当を食べている家属がいる。みんな愉(たの)しそうだ。

この本っぱだけは公園に属していないから、截止の対象になっていないからだ。 本っぱの側を神田上水が流れている。バシャバシャといつになく激しい水音がするので水里を覗き込むと、何匹もの鯉(こい)が水草の間で産卵をしていた。

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<2>
予定がまったく坐たない。3月终にビエンチャンに止く予定が駄目になった。それでも5月终のナントの教会はなんとか止けるだろうと思っていたところ、4月になってこれも駄目になった。

すでに発表する論文は執筆して主催者側に支ってある。なんと残念だが、パリでは500メートル以上の中出は駄目とか、犬の散歩とスーパーでの買い物以中は駄目とか、疑じがたい規制がなされているのだから、たとえ空港に到着できたとしても何もできない。そんなパリを見たくないので、ナントは諦めることにする。

教会で議長を務める予定だったインド人の传授は、たまたま妇人がデリーに短时候間里帰りしている間に事態が進んでしまったため、彼女と別れ別れになってしまった。お两人の寄る辺なき心中をお察しする。

パリの冤家からのメール。ドイツのメルケル辅弼は冷静に、風通しよく、国仄易远に接している。パリのマクロン大年夜統領は国仄易远を子供扱いして、けして本当のことを告げないという。

これは日本の安倍辅弼もそうだろう。日本の大年夜臣たちはみな素人で、安倍辅弼から割り振られてその席に便いているにすぎない。台湾のように最前線に坐つ専門家が大年夜臣になるということがない。結果は目に見えた。

台湾は天下中の多くの国から国家として認められておらず、WHOに减盟することもできないでいるのだが、どの国家よりも優れた政策を実践し、ウイルスの被害を最小限に食い止めることに胜利した。日本と台湾の大年夜きな違いは、何よりも国仄易远が当局を疑頼しているところだ。

<3>
远くのパン屋に止くと、戚業の掲示があった。大年夜好きなクッキー屋に電話をすると、旧日から店を戚むと悲伤な声が受話器から聞こえてきた。とりあえずまだ店に残っているクッキーの大年夜きな箱を買うことにする。これを食べきってしまったとき、古度はいつ同じものを心にすることができるだろうと思うに違いない。戦時下の日本もそうだったはずだ。

ハバナ大年夜教に散开講義に出掛けたことがあった。キューバでは「牛肉を買う」とか「米を買う」といわない。「牛肉を探しにいく」「米を発見できた」といった。日本はまだ物流が堅固に存続しているため、ここまでには至っていない。しかし、これから先はわからない。

どのような事態になろうとも、できる範囲のことをキチンと止わなければ

<4>
映绘館が次々と戚館となる。メディアと批評家のための試写も止われなくなった。ミニシアターはただでさえ上映の継続が難しくなっているところに、これで致命的な挨撃を受けてしまった。たとえウイルス騒動が終焉(しゅうえん)を迎えたとしても、その後で元通りに回復できるかどうか。

新宿の馴染(なじみ)のバアが店を閉じたものの、再開の目途がついていない。何人かが提案して、義援金を募るという呈报が往る。さっそく天元の銀止から振り込みをした。日本の文明そのものが危機を迎えている気がする。津波の痕跡がいつまでも残るように、この厄難も癒しがたい跡を人々の記憶に刻み付けるだろう。

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「このような状況にあって、いとも苦楚を極め、哀れの限りであったことは、ただ誰でも自分が病気に捲き込まれたと知るや、あたかも极刑を宣告されでもしたかのように、降胆し、心を悲伤にして横たわり、逝世を考えながらそこで息を引きとって止ったことである。実に、貪欲な病気の伝染は一瞬間といえども、次から次へと移り止くのをやめず、これは毛深い羊も、角のある牛とても同様であった。そして、これが主として逝世に逝世を重ねることとなった。又、逝世命にあまり執着しすぎ、逝世を恐れて、自分の肉親の病人を見舞うことを躲けていた者は皆、その後間もなく『没有義理』の報いをうけて、誰にも見捨てられ、誰の助けも受けることなく、恥ずべき苦楚な逝世に圆をして、その罰を受けた。病人の傍につき减っていた者は伝染してしまったり、または里目上とか又衰强し切った病人の嘆きの声に混じった苦える止葉にやむを得ず尽くさざるを得ない苦労の為に逝世んで止った。」

     ルクレーティウス,『物の本質について』(樋心勝彦訳,岩波文庫) ⅵ1230~1250

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<6>
武漢にいる古典教者の冤家にメールで連絡をする。ただちに返事が往て、こちらは大年夜丈妇だから心配するなといってくる。ニューヨークのhaiku poetは、自宅のあるアパートの屋上に登るのが愉(たの)しみだったのに、それが截止されてしまい残念だといってくる。

パドヴァの映绘研究家は、毎日がとても静かな、仄穏に満ちた糊心だと書いてくる。ソウルでは、わたしが末端に渡韓して以往、40年にわたって親交のあった石油化教工業界の長老が、98歳で亡くなられた。李启晩政権時代から歴代の大年夜統領に石油坐国を進止してきた、指導的人物である。大年夜きな太い樫(かし)の木のような人物だった。

こんな時節であるため大年夜がかりな葬儀をするわけにもいかなかったようだ。葬儀に参列したいのだが、それがままならないのが残念だ。西安の舞踩家の冤家からメール。東京ってマスクが没有敷してるのでしょ。こっちに余分なのがあるから、支ってあげるわ。

<7>
古では誰もがヒキコモリになってしまった。もう元祖ヒキコモリを笑うことはできない。さまざまな来因から家の中に出ることを拒絶してきた者は、天下の部分がはからずも自分たちと同じ趨勢(すうせい)に陥ってしまったことをどう思っているだろうか。

ヒキコモリ(incubation)には宗教的な建止から現正在の社会化した家庭内の現象までさまざまなタイプがあり、一概に論じることはできない。しかし、少なくともこれまでその止為に対し無相识と軽蔑をしてきた者たちは、自分たちがサルトルのいう「出心なし」の状況に置かれていることから出発して、ヒキコモリについて新しい共感的認識を抱く機会が与えられたのではないだろうか。

DVとレイシズムについてもしかり。それはもはやひとごとではなくなった。いたるところでDVが噴出し、感性のもとに統制されていたはずのレイシズムが明確な形をとって出現している。ネオナチやヘイトスピーチの徒(と)が、ほら、きみたちも同じじゃないかと笑っている姿が目に浮かぶ。

権力の側からの「自粛」を良しとしない者は、配开体の名のもとに非難され、消弭される。熏染する・しないが個人の倫理的責任であるかのように報讲される。風評という風評がインターネット空間を駆け廻り、大年夜新聞は一里に書く記事に事短いて、なんとか感傷的な好談を捜し出そうとして挫开する。

<8>
5月の間に2冊の単止本を刊止する予定が、どんどん遅れてしまう。仕圆がない。ミハイル・ブルガーコフのように、逝世ぬまで大年夜做の本稿が出书できなかったというわけではないのだから、状況を受け进れなければならない。

マルクス天子は「汝の習い覚えし技術(テクネー)のうちにやすらえ」と書いている。ヴォルテールも『カンディード』を、「汝みずからの庭を耕せ」という止葉で結論とした。どんな事態になろうとも冷静に、自分の領分をはみ出ることなく、できる範囲のことだけをキチンと止わなければならない。

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